連載コラム 都心*街探訪

2018年10月15日

第52回
日本一の地域ブランド『銀座』の変わらぬ価値

文:荒井直子 撮影:佐藤真美

商業と暮らしが密接な町人町として発展

銀座4丁目交差点

仮に“銀座に住んでいる”という人がその場にいたら、それだけで驚きと羨望の的になるだろう。その反応はおそらくいつの時代も変わらないであろう、都心でもっともスペシャルな存在が『銀座』という町。その理由の第一に挙げられるのはやはり、地価の高さにあるだろう。

2018年3月に国土交通省が発表した地価公示では、12年連続で銀座4丁目の山野楽器本店がトップに。その価格たるや1平方メートルあたり5550万円と、一般的な感覚からはかけ離れた天文学的な数字である。この1位を含めて、2018年のトップ10のうち6つまでもが銀座アドレス。“銀座ブランド”の強さがいかにずば抜けているかがよくわかる結果だろう。

今でこそ銀座に住むことにはこうした特別感が漂うが、町の成り立ちをさかのぼると町人の集まる下町としてスタートしている。現在の日比谷から丸の内にかけてはかつて“日比谷入江”と呼ばれていた海であり、現在の銀座エリアは入江にできた砂州の先端にあたる場所だったという。この日比谷入江の埋め立てから始まった江戸の都市整備事業では、五街道の起点となった日本橋とその隣・京橋の町割りをおこなった後、銀座の開発に着手。その順番があらわすように、賑わいや商いの中心はあくまでも日本橋だった。

その銀座の大きな転機となったのが、1612年に当時の駿府から銀を鋳造する役所『銀座』が移転してきたこと。銀を扱う人たちを中心に生活用品を扱う職人たちも集まるようになり、次第に町人町として賑わいを見せるようになる。とはいえ、それでも当時はまだまだ商業の中心は日本橋。銀座が日本を代表する商業地になるのは、もう少しあとのことになる。

銀座が大きな飛躍を遂げた背景にあるのは、明治時代初期に起こった大火が大きく関係している。二度の大火で大きな被害をこうむった町は、当時の東京府主導のもとで大規模な区画整理で町の再建を行うことになる。それが、近代的かつ西洋風な街並み『銀座煉瓦街』であり、外国人建築家のトーマス・ウォートルス設計によりモダンな町並みが誕生した。完成当初は見慣れぬ建物に戸惑う人も多かったようだが、輸入物を扱う商店を中心に商業建築やオフィスとして需要が高まるにつれ商業地としての地位を確立。西洋の新しいモノ、珍しいモノ、そして最先端のファッションや文化が集まる町となり、徐々に日本橋をしのぐほどの存在になっていった。

“銀座に住む”は可能なのか?

銀座ソニーパーク

こうした町の成り立ちもあり、日本橋界隈と同じく長らくは職住近接の町で、明治時代の終わり頃には3万人近い人口があったという。しかしながら、関東大震災や第二次世界大戦を機に人口は著しく減少。そして、地価が桁違いに上がっていった高度経済成長期やバブル経済期を通してより一層、銀座に住むことにはスペシャル感が強くなっていった。

その傾向に変化がみられるようになったのは2000年前後だろうか。バブル経済の崩壊と連動して土地価格が後退し続けた結果、東京都心の住環境には“都心回帰”という現象が起こる。地価は下がり続けるうえ、都心のオフィスや倉庫などまとまった土地が次々と集合住宅に作り変えられ、住まいへと転換していった。バブル経済期には「どこに住むところがあるのだろうか?」と思われていた銀座の町も、近年では思いのほかマンションが増えてきた。もちろん、東京メトロ銀座線・日比谷線・丸ノ内線『銀座』駅のある銀座4丁目交差点や数寄屋橋交差点付近に住宅はほとんどないと思うが、東京メトロ銀座線『京橋』駅や東京メトロ有楽町線『銀座一丁目』駅・『新富町』駅、東京メトロ日比谷線『東銀座』駅・『築地』駅といった銀座1、2、3丁目や昭和通り方面には思いのほか住宅がある。けっして一般的とはいえないまでも銀座に住むことは可能であるし、実際に2018年9月1日現在3585人が銀座にアドレスを持っている。

そんな銀座の町ではここ数年、再開発があちこちで進み、『東急プラザ銀座』や『GINZA SIX』、『GINZA PLACE』など大規模な商業施設が次々にオープンした。また、2020年の東京オリンピックに向けて新たなホテルなどの開発も続々と進行中だ。さらに、現在は『銀座ソニーパーク』としてビルの谷間のオアシスとなっている旧ソニービル跡地もオリンピック後には新たなビルに生まれ変わる予定だ。東京のみならず、日本の経済と連動しながらいきいきと変化していく町・銀座。ダイナミックな都市の動きをダイレクトに感じる暮らしは、まさに東京都心に住む醍醐味かもしれない。