連載コラム 都心*街探訪

2018年2月15日

第44回
多彩な顔をもつ『四谷』の楽しみな未来

文:荒井直子 撮影:佐藤真美

四谷見附の配置で「武家町」として発展

四谷大木戸跡碑

メディアや不動産情報サイトから発信される“住みたい町”は、人気も注目度も高いことは間違いない。でも、そういった報道にはあまり現れることはなくても、住んでみたくなるような魅力的な町が東京には山ほどある。その代表的な町のひとつが『四谷』ではないだろうか。

東京の都心部に暮らしている、もしくは働いているならば当然、四谷の名は誰もが知っているだろう。そのわりにイメージはさまざまで、学生街、オフィス街、閑静な住宅街、寺町と幅広い。また、美食家には荒木町やしんみち通りなど大人が集まる町のイメージもあれば、逆に明治神宮外苑や赤坂御用地、新宿御苑など豊かな緑と広い空のある晴れやかなイメージもあり、そのどれもが当てはまるようでいて、どれかひとつには定められないのがこの町の特徴だろう。

四谷の歴史は東京都心のなかでも非常に古く、江戸時代が始まって間もなくのこと。江戸期以前はすすきが生い茂るような郊外の町だったというが、1636年に江戸城の外堀と四谷見附が設置されると町は大きく変化する。まず、堀の内側にあった寺社が現在の若葉二丁目・須賀町付近に相次いで移転し、寺町の様相を帯びてくる。さらに、四谷見附が置かれたことで江戸城を守るために旗本や御家人が配され、武家町としても発展する。その後、1657年の明暦の大火で名古屋藩徳川家の上屋敷が四谷御門付近に屋敷を構えるなど大名屋敷も移転してきたことから、江戸郊外の町は瞬く間に江戸市街の重要な町として発展していった。

都市として発展したもうひとつの要因は、江戸時代の五街道のひとつ「甲州道中」が町の中央を走っていたことも大きいだろう。四谷の西端にあたる現在の四谷4丁目交差点付近に「四谷大木戸」(関所)がおかれ、四谷はこの周辺に栄えた宿場町へと続く町人地の顔も持つことになる。この甲州道中が現在の国道20号、通称・新宿通りと呼ばれる幹線道路。この道路は現在、四谷エリアで外堀通り・外苑東通り・外苑西通りと交差し、四谷は陸上交通の要所にもなっている。やはり、いつの時代も足回りの良さは都市として発展する大きな要素になっていることは間違いない。

駅前大規模再開発で将来も期待大

三栄通りの街並

利便性は道路だけではない。現在、四谷エリアには東端にJR中央線・総武線「四ツ谷」駅と東京メトロ丸ノ内線・南北線「四ツ谷」駅、中央部に東京メトロ丸ノ内線「四谷三丁目」駅があり、中心部から少し離れるが北端には都営地下鉄新宿線「曙橋」駅、南端にはJR総武線「信濃町」駅もあり、交通利便性も申し分ない。車も電車も利便性が高いことは当然、都心で働くビジネスパーソンにとっては大きな魅力であるはずなのだが、“住みたい町”としてイメージされにくいのには、おそらく古くからのお屋敷街というイメージが強かったり、逆に暮らすイメージがわかないという人が多いのかもしれない。実際に町を歩いてみると、新宿通りから少し入るだけで一気に住宅が多くなり、とくに新宿通り南側は昔からの地主が住む閑静なお屋敷街が多い。北側は津の守坂通りや外苑東通りを中心に小中規模のマンションが多く立ち並び、新しい住民も多く住むエリアとなっている。

四谷エリアにはこれまで目立った大規模再開発はなかったが、現在、JR四ツ谷駅前でオフィス・商業施設・教育施設・公益施設・広場・住居を備える大規模再開発が進行中だ。外堀通りに面する約2.4haの大規模な開発は、完成後には四ツ谷の新たなシンボルになることは間違いなく、これまで大きく注目を集める機会が少なかった四谷の新たな姿に期待が高まっている。