連載コラム 都心*街探訪

2016年10月17日

第28回
時代ごとにシンボルを変えていく「築地」

文:荒井直子 撮影:佐藤真美

寺町・武家町から、外国人居留地へ

築地本願寺

隣に位置する日本随一の商業地・銀座と並び、国内外から観光客が押し寄せる現在の築地。日本橋や銀座界隈と並び、江戸時代初期から賑わっていた町かと思うと、意外にそうでもない。

築地一帯が誕生したきっかけは、江戸時代が始まって約半世紀が過ぎた1657年の大火災「明暦の大火」。現在の日本橋横山町にあった江戸浅草御坊(現在の築地本願寺)が大火によって焼失し、区画整理のために移転することになったその先が八丁堀の先、つまり当時は海の上。そのため、急いで海を埋め立てて築地一帯が誕生したというわけだ。築地という名も、“海岸に築いた土地”に由来する。

こうして誕生した築地の町は、築地本願寺を中心に、大名や上級旗本の屋敷が立ち並ぶ武家町として発展。とくに海沿いの屋敷は領地の産物を運び、保管するのにはうってつけの場所だったようで、名古屋藩徳川家の蔵屋敷は四方を水路にして水運に備えたほど。のちにこの場所が築地市場になったことからも、運輸事情の良さが伺える。

明治時代に入ると、築地は新しい顔を持つようになる。関東では横浜に続いて二番目の外国人居留地が設置され、イギリスやオランダ、ポルトガル、アメリカ、スペインなどの領事館が開設された。また、明治6年にキリスト教禁制の高札が取り除かれたことを機に、十数の教派の宣教師が来日。競って築地に教会を建てるようになり、ミッションスクールを開校していった。布教を進めるとともに、医療活動や慈善活動にも積極的に貢献していた。多くの教会はその後、東京各地に移転。築地に現存するのは築地聖ヨゼフ天主堂と聖路加国際病院礼拝堂のみだが、当時は居留地だけでも11もの教会があり、まさに異国情緒あふれる街並みを形成していたという。

こうした背景から、慶應義塾大学、立教大学、女子学院、雙葉学園、暁星学園、明治学院大学、関東学院大学など築地発祥の学校は数多くある。発祥ではないものの、立教女学院と青山学院も居留地時代は築地に開設されていた。外国人居留地は明治32年に撤廃。しばらくは異人街として存続していたが、関東大震災でほぼその姿を失った。

築地市場を中心とした食の町へ

築地場外

外国人居留地があった場所は、現在の東京メトロ日比谷線「築地」駅・同有楽町線「新富町」駅から東側に向かった一帯で、住所でいうと明石町を中心としたエリア。居留地の面影は聖路加国際病院付近にかすかに感じられる程度で、残念ながら現在はほとんど残っていない。

居留地に変わって築地の新たなシンボルとなったのは、関東大震災後に魚市場が日本橋から移転し、1935年に中央卸売市場として開設された築地市場だ。2000年に都営地下鉄大江戸線の全線開通とともに「築地市場」駅が開業し、今まで以上にアクセスしやすい場所になった。もともと、卸売業者と仲卸業者といったプロの集まる市場だったが、次第に一般の買い物客や観光客が来る場所としても人気が高まり、近年は外国人観光客の数が急増。市場の外に広がる通称「場外」の店とともに、大勢の人で賑わう場となっている。周囲は市場で仕入れた新鮮な魚介類を出す飲食店も多く、都内でも有数の飲食店激戦区ともいえるだろう。

現在は築地=市場というほど築地のシンボリックな存在だが、周知のとおり、施設の老朽化とスペース不足解消を理由に近隣の江東区・豊洲に移転することになった。2016年秋の移転はいったん延期されることになったが、ゆくゆくは移転する方向。今後、市場跡はどのように変わっていくのか、また新たなシンボルができるのか。今後しばらく、築地の動向から目が離せない。