連載コラム 都心*街探訪

2015年7月15日

第13回
時代を映す「大崎」の街並み

文:坂根康裕 撮影:富谷龍樹

工場街が超高層ビル群の街に

再開発によって整備された歩道

駅前に広がる大小の工場群。それが数十年前の「大崎」駅のイメージである。個人的には、環状線(山手線)ながら乗り換えを余儀なくされる「大崎駅止まり」の印象も強かった。今は、どうか。複数の再開発プロジェクトが完了し、ビジネス街として、あるいはタワーマンションが数多く集積する住宅街へと景色は一新。鉄道路線は「りんかい線」がつながり(2002年)、JR埼京線や湘南新宿ラインの乗り入れにより利便性は飛躍的に高まった。

再開発の契機は90年代初頭のバブル崩壊だったようだ。もとより「街中に工場の騒音が響き渡っていた」昭和初期から高度経済成長期や二度のオイルショックを経て、さらにいえば「大きな産業構造の転換」が街の刷新を促したといえる。家内工場(従業員5人未満)が大多数を占めたようだが、ソニーや明電舎といった日本を代表する大手メーカーが育った沿革も当該地ならではのもの。

工場街として発展した理由には、海に近い地理上の特性と工場用水を供給した目黒川の存在が大きかった。それ以前は水田が広がっていたが、地面がゆるく、さほど稲作には適していなかったことも転用を容易にしたと思われる。さかのぼれば縄文の頃は海だった場所。海岸線の後退や埋め立て等によって現在の地続きとなるが、五反田以南の目黒川は運河と称したほうが正確なのかもしれない。関東大震災以後、近隣の荏原地区などは爆発的に住宅が増えたのに対し、大崎地区がそれほどでもなかったのは度重なる目黒川の氾濫など、住居利用には解決すべき課題が多かったことが背景にある。そのように考えれば、複数の再開発プロジェクトがこれほど短期間に(構想から数えれば相当な年月にはなるのだが)進行可能だったのは、住宅用途の割合が都心部他地域に比べて低かったからとの推察が成り立たなくもない。農から工へ。そして、働と住へ。戦前から現代にかけて、大崎地区ほど時代の移り変わりに臨機応変に順応できた地域も珍しいといえるだろう。

変わらない「結節点」としての役割

目黒川と親水広場

「大崎」住所は1丁目から5丁目まで。鉄道駅はJR山手線「大崎」駅と東急池上線「大崎広小路」駅が含まれる。平成7年度と21年度比で「大崎」駅1日あたり平均乗車人数は4.4万人弱から12.4万人強に急増。同じ品川区内にある「目黒」「五反田」両駅がともに微減していることからも、突出した数字である。東海道新幹線「品川駅停車」もその利便性を相対的に引き上げた要因のひとつだが、発展著しい臨海地区との結節点であることが最大の理由だろう。

海を東に、富士山を南に。江戸の玄関口でもあった品川高輪から目黒大崎に至る高台は、大名屋敷の候補地としてたいそう人気が高かったらしい。古来より憧れのロケーションだったのである。治水事業の進んだ目黒川沿いは親水広場も設けられ、今では憩いの場に。桜の名所としても知られている。