連載コラム 都心*街探訪

2017年1月16日

第31回
線路を挟んで対照的な姿を見せる「田町」

文:荒井直子 撮影:佐藤真美

歴史の表舞台に登場する三田エリア

三井綱町倶楽部

都心にはほぼ同地点にありながら路線によって駅名が異なることがときどきあるが、田町もその一例。JR山手線・京浜東北線「田町」駅の間近に都営地下鉄浅草線「三田」駅が通り、さらに少し離れたところに都営地下鉄三田線「三田」駅がある。この駅名の違いが現すように、「田町」駅側と「三田」駅側とでは、町の様相は大きく異なるのがこのエリアの大きな特徴だろう。

「三田」駅側は住所でいうと三田1丁目〜5丁目と芝1〜5丁目あたりで、歴史の舞台にもたびたび登場する。とくに三田1・2丁目や芝2・3丁目付近は江戸時代に夕涼みの名所として知られた古川の流れに近く、鹿児島藩島津家や久留米藩有馬家の上屋敷、会津藩松平家の下屋敷などが立ち並んだ武家屋敷街。こうした広大な敷地が保たれていたエリアはほかの都心部の武家屋敷跡地と同様、明治時代以降に病院や学校、大使館に変貌していった。

その代表的なもののひとつが、三田のシンボルともいえる慶應義塾大学。旧島原藩松平家の中屋敷跡地を主に、会津藩松平家の下屋敷の一部にも敷地を拡げ現在の姿になった。また、隣接する柏原藩織田家と佐土原藩島津家の上屋敷跡地はイタリア大使館と綱町三井倶楽部に生まれ変わり、大名屋敷の歴史と風格を今に伝えている。

武家地の名残のあるエリアから少し離れた三田4丁目付近は、江戸時代から現在まで続く寺社町だ。江戸時代には江戸市街地の南端だったエリアだが、平成の世においては都心の中の都心。これほどの場所によく今でもここまで寺社が集まっているかと感心するほどの集積具合で、起伏の多い地に寺社と墓地が連なっている。魚籃坂、伊皿子坂、幽霊坂、蛇坂、聖坂、潮見坂など有名な坂もこのエリア。寺社をはじめ時間が止まったような建築物も多く、どことなくタイムスリップしたかのような感覚を味わえるエリアだ。

時代によって自在に変貌する海側エリア

芝浦アイランドと運河

歴史ある「三田」側とは対照的に、時代に呼応するように新しい姿を見せるのが「田町」駅の東側だ。駅の西側を通る第一京浜が旧東海道にあたり、それより東側の土地はほとんどが明治末期以降の埋め立て地。運河が非常に多く、その周囲には工場や倉庫、オフィスが多く点在していたが、1980年代後半のバブル景気頃にはライブハウスやディスコが進出。時代の最先端をいくエリアとして知られるようになった。バブル崩壊後は一時その勢いを失っていたが、2000年代に入ると大規模な再開発が始まり、表舞台に再登板。その象徴ともいえる存在が、芝浦4丁目にできた「芝浦アイランド」だ。企業の工場や都電の操車場などの跡地にできた芝浦アイランドは、超高層マンション「エアタワー」「ブルームタワー」「グローヴタワー」「ケープタワー」の4棟から構成され、約4000戸、人口約1万人の巨大な街として誕生。都心回帰の時流とぴたりと合い、現在でも人気の都心タワーマンションのひとつだ。

時代の最先端の姿を見せることには変わりないが、「田町」駅と芝浦アイランドの間には屋形船がゆったりと停泊しているなど、新旧入り混じる様相も残っている。「田町」駅を挟んだ対称的な姿はもちろん、それぞれのエリアのなかで感じさせる時差もおもしろく、東京都心の奥行きを感じさせる。