連載コラム 都心*街探訪

2018年8月14日

第50回
利便と住環境が程よく揃う「三軒茶屋・三宿」

文:坂根康裕 撮影:佐藤真美

交通の要衝から人気の街へ

田中屋陶苑

「三軒茶屋」の名称は、江戸時代に大山街道(現在の「国道246号線」)と登戸道(同「世田谷通り」)の追分にあたる場所に、「田中屋」「信楽」「角屋」の三軒のお茶屋があったところからきている。「田中屋」に至っては、陶器を扱う商店として今も同じ場所で営業を続ける。交通の要衝として栄えた界隈の転換期は、明治に入って兵営が造られたとき。街道に商店や旅館が賑わい、軍事地域としての特色を強めていった。戦時中にはそれが災いし、第二次世界大戦のときに空襲で大きな被害を受けることとなった。

交通機関としては、明治40年に道玄坂から三軒茶屋まで玉川電車が開通。その後、玉川(現在の二子玉川)、砧、下高井戸、溝の口へと拡張していった。昭和の高度経済成長期に入ると、車両交通の発達や高速道路の建設から、渋谷〜三軒茶屋間が廃止。地下鉄「新玉川線」(現在の田園都市線)にその経路が継承された。現在、玉川電車は三軒茶屋〜下高井戸間のみ「東急世田谷線」として存続している。

軍の施設は、246号線南側に防衛省、駐屯地などが一部残されているが、多くは官舎、公園、教育機関などに転用された。規模の大きなものとして「区立世田谷公園」や「昭和女子大学」などが挙げられる。

中央に噴水がある大きな広場の周りでは将棋を指す高齢者からスケートボードで遊ぶ若者まで、多種多様な光景が日常的だ。カートコース、ミニSLと様々な設備があるところも「世田谷公園ならでは」と言える。東京には、それぞれに個性的な大型公園が点在するが、世田谷公園に至っては「老若男女が集まる憩いの場」の代表的な存在と思えてならない。女子大の存在は、最寄り駅周辺の店舗に少なからず影響を与える。三軒茶屋が単身女性含め、とくに若い世代から「住んでみたい街」として多くの支持を得るのは、暮らしていくうえで「利便と環境」がバランスよく揃っているからではないだろうか。

イメージと地名の不一致

三宿通りの飲食店

三宿の交差点は、三軒茶屋駅地上出口から700メートルほど東に行ったあたり。玉川電車が走っていた当時は「三宿駅」があったようだ。地名由来は、昔「北宿」「本宿」「南宿」と三つの宿から村が構成されていたからという説と、水利に恵まれた地形であったことから「水宿(みしゅく)」を語源とする説があって、(区が発行する図書によれば)後者が有力のよう。

繁華街から少し離れたエリアが、繁華街の中心地よりも「隠れ家的」で「やや年齢層が上」の世代に人気が集まる。西麻布や白金といった地域と少々イメージがかぶるのだが、読者の皆さんはいかがだろうか。飲食店の集積の先駆け的な存在として「ゼスト」や「春秋」といったダイニングバーの名が挙がるが、両店に限っては数年前に閉店してしまった。

今回「三軒茶屋・三宿」として取り上げたが、じつのところ、この2地域は一切隣接していない。間には、太子堂や池尻、下馬といった住所が入り込み、面積も2地域が圧倒してそれらより小さい。にもかかわらず、界隈すべて「三軒茶屋・三宿エリア」としてくくられているような印象がある。前段の「東急世田谷線<三軒茶屋駅>」「世田谷公園」「昭和女子大」、ついでに地域のマーク的存在である「キャロットタワー」も、じつはすべて2地域外の所在地名なのである。