連載コラム 都心*街探訪

2016年6月15日

第24回
武家地の歴史を受け継ぐ住宅街「市谷」

文:荒井直子 撮影:佐藤真美

江戸城を守る拠点として

市ヶ谷橋から外堀

江戸時代、城下の6割以上が武家地だったと言われているが、市谷は代表的なそのひとつ。江戸初期にはすでに開発が始まったエリアで、日本橋と並ぶ歴史ある町である。外堀沿いには江戸城の城門「市ヶ谷御門」が配され、お堀の内側の町「番町」から市谷・四谷方面へ向かう出口として重要な役割を担っていたという。

この場所の特性からもわかるように、市谷には江戸の西側を守るために旗本や御家人をはじめとした多くの武家屋敷があった。なかでも多くの敷地をこのエリアに持っていたのが、尾張徳川家。藩主とその家族が暮らす上屋敷のほか、中屋敷、下屋敷、別邸など、数多くの屋敷を持っていたという。こうした広大な大名屋敷の多くは、明治維新後に新政府や軍の施設となり、尾張徳川家上屋敷跡地には陸上士官学校が開校。戦後は陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地となり、現在は防衛省も移転。結果として市谷は、日本の国防組織が集まる場所という顔も持つことになった。

まとまった広さを持つ武家地以外は明治維新後に一時的に荒廃。桑茶畑が広がっていた時期もあったというが、坂の上に台地が広がる恵まれた土地形状であったことから、徐々に住宅地として復活していった。現在の住居表示にも歴史を感じさせるものが多く、たとえば今の払方町や納戸町は、江戸幕府の役職名である「払方御納戸」の拝領地であったことからその名がつけられた。また、市谷鷹匠町は鷹匠組屋敷があったことがその由来。市谷左内町や市谷砂土原町はそこに住んでいた人物の名に因るもので、前者はこの地の名主であった島田左内重次、後者は徳川家康の側近、本多佐渡守正信から名づけられている。恵まれた環境にこうした歴史の重みも重なり、現在は都心の高級住宅街のひとつとして揺るぎない地位を確立している。

利便性が高まり若い世代からも人気

逢坂

市谷を歩いてすぐ気付くのは、じつに坂の多い町であること。東京メトロ有楽町線・南北線「市ケ谷」駅・都営地下鉄新宿線「市ヶ谷」駅・JR「市ケ谷」駅が交わる駅周辺から、「市谷」と名のつく町のほうへ向かうと、その多くは坂道だ。神楽坂方面に向かう牛込中央通りなど名のない坂もあるが、左内坂や長延寺坂をはじめ、飯田橋方面に向かう歌坂など名のつく坂も数多くある。なかでも有名なのが、浄瑠璃坂や逢坂など歴史上の事件や伝承として語られている坂。どちらの坂も見るからに上質な住宅と石垣や豊かな緑が交わり、落ち着いた住宅街らしい景観を見せている。

武家地から始まった歴史的背景もあり、もともとは一戸建てや邸宅的な低層集合住宅の多いエリアだったが、市谷エリア中央部に都営地下鉄大江戸線が開業して交通アクセスのバリエーションが一段とアップ。近年はその利便性から、外堀通りや牛込中央通り、大久保通りなどの主要道路沿いを中心に高層の集合住宅やコンパクトタイプの住戸を擁する集合住宅も数多く立ち並ぶようになった。さらにこのエリアは、隣町「神楽坂」も生活圏になるため、飲食店や生活利便施設などにも恵まれている。こうしたことから、近年は都心で働く若い世代やファミリーも多く集まるようになり、幅広い世代でにぎわう町となっている。