連載コラム 都心*街探訪

2015年9月15日

第15回
なぜ「自由が丘」は住みたい街に選ばれる?

文:坂根康裕 撮影:富谷龍樹

恵まれた地勢と区画整理された街並み

街の発展の功労者、栗山久次郎氏の銅像がある「熊野神社」

「住んでみたい街ランキング」の類で、必ずといっていいほど上位に挙がるひとつが自由が丘である。良好なイメージを享受しようとするためか、隣接行政区でも建物名などに自由が丘の名を散見できるが、目黒区自由が丘(1〜3丁目)は「自由が丘」駅北部の約800メートル四方の区域で、隣の世田谷区奥沢(1〜7丁目)と比べると三分の一程度の大きさしかない。由来は「自由が丘学園」からきている。学校名が元となり、地名と駅名に応用された事例は珍しいそうだ。

界隈は、昭和初期まで「碑衾(ひぶすま)町」といって、現在の目黒区碑文谷辺りまで一帯であった。今の自由が丘駅周辺は、広く地名に「谷畑(やばた)」が付くほど、多くは耕作地として利用されていた。とはいえ決して肥沃な土地とはいえず、田んぼなどは稲を植えることができないくらいゆるく、種をまくしかなかったという。鉄道敷設の計画が持ち上がった際、一般的に意思統一が困難とされる区画整理事業が滞らなかったのは、地主らが住宅街として繁栄していくことに活路を見出したのではないかといわれている。もとより、地形は目黒通りを尾根に、なだらかな南傾斜である。日照に恵まれた斜面地は、規則正しい道路が走る住宅地として生まれ変わり、関東大震災が移住に拍車をかけた。駅周辺は二路線の交差を活かし、縦横無尽に商店街が展開されている。通り名を設け、道並みの景色が「らしさ」のひとつ。例えば、「マリクレール通り」は屋内外の空間を一体活用した店舗の連なる緑道で、これなどは代表的な景観形成をなしているといえるだろう。

定番スイーツ「モンブラン」の発祥地としても知られる。生活雑貨店舗の集積など、暮らしのゆとりを醸し出す商業施設が多いことも街の特徴であろう。東京、横浜いずれからも利便良く、ロケーションとしての利点もステイタスを築く礎になったと推察できる。

ひときわ厳しい建築規制

低層住宅の街並み(自由が丘1丁目)

所在地内の鉄道駅は東急東横線、東急大井町線の「自由が丘」駅のみ。バス路線が周辺の住宅街を巡っているが、発着地点のひとつである駅前ロータリーは広大なものではなく、週末ともなれば辺りは恒常的に車両渋滞に見舞われる。

落ち着いた住宅街は、東に隣接する「緑が丘」も同様である。閑静な街並みを形成する第一種低層住居専用地域に指定されていることは同区近隣の「柿の木坂」や「平町」「八雲」などと同じだが、特筆すべきはとりわけ緑地(空地)を多くする「建蔽率50%・容積率100%」の厳しい規制がかかっていることだ。散策に来た大勢の来街者が通りを歩く、その一本隣の道は人影もまばらな邸宅街が広がる。賑わいと静寂。このギャップこそが、多くの人に住んでみたいと思わせる理由なのではないだろうか。