連載コラム 都心*街探訪

2017年8月16日

第38回
都市暮らしを知り尽くした大人が集う町『富ヶ谷』

文:荒井直子 撮影:佐藤真美

“奥渋谷”のひとつとして再評価

起伏のある富ヶ谷2丁目の街並み

ここ10年くらいのことだろうか、渋谷駅から十数分ほど歩いた場所にあるNHK放送センターや代々木公園の西側エリアを“奥渋谷”と呼ぶようになり、メディアでもたびたび取り上げられるようになった。個性的なカフェやレストラン、ブックストアなどインディペンデントなショップが増え、独特なカルチャーが育まれているのだ。そんな奥渋谷をもっとも代表している町が、今回ご紹介する『富ヶ谷』だろう。

富ヶ谷という町の名前自体は、JRの駅がある近隣の渋谷や代々木ほどメジャー感はない。また、隣接する松濤は都心屈指の高級住宅街として広く知られるが、富ヶ谷はそのイメージも薄いだろう。

このように、メジャーな町のすぐ隣にあり、その陰に隠れていたことが“奥渋谷”として新たな息吹が流れた理由ではないかと思う。都心のターミナル駅やその周辺はすでに町として成熟し、それゆえに“隙”が少なく新しい風が吹きにくい。新しくなる場合にも大規模再開発として大資本が入りやすく、町の風景が均質化してしまうことも多いだろう。しかしながら、富ヶ谷のようにメジャーではないことがかえって伸び代となり、JRの駅があるような“誰にとってもわかりやすい町”ではないからこそ、独自のカルチャーが静かに育まれていったのではないだろうか。

豊かな緑、楽しい商店街がバランスよく揃う住宅街

富ヶ谷交差点からの風景

もちろん、こうした町の再評価は立地条件の良さがあってこそ。奥渋谷と呼ばれることから駅が遠いと思われがちだが、実際の最寄り駅は東京メトロ千代田線「代々木公園」駅と小田急小田原線「代々木八幡」駅であり、とても便利な立地。都心の町らしく複数駅・複数路線利用も可能で、場所によっては東京メトロ千代田線「代々木上原」駅や京王井の頭線「駒場東大前」駅も利用できる。都心ならではの交通利便性をもちながら、代々木公園の豊かな自然環境も同時に享受でき、もともと土地の持つポテンシャルが高い場所といえるだろう。

また、幹線道路から一歩入った場所は静かで環境の良い住宅街であり、渋谷生活圏とは思えないほど一戸建ても多い。というのも、もともと関東大震災後に下町方面から多くの人が移住し住宅地として発展していった経緯があり、現在でもエリアの多くは住宅街。松濤に隣接する富ヶ谷1丁目はお屋敷街の雰囲気もあり、山手通りを渡った富ヶ谷二丁目は比較的庶民的な雰囲気の静かな住宅街が続いている。近年は山手通りや井の頭通りなど幹線道路沿いを主にコンパクトなマンションも増え、若い人たちも奥渋谷の暮らしを楽しむことができるようになってきている。

このエリアは非常に坂の多い町としても知られ、その特徴も住宅街らしい風情に関係しているだろう。大まかにいうと渋谷駅を谷に、代々木公園や代々木上原方面に向かって坂になっているのだが、その間にも小さな起伏があちこちにみられ町の風景に奥行き感を作っている。その複雑な土地形状を垣間見られるのが山手通りと井の頭通りが交わる「富ヶ谷交差点」の歩道橋の上。東京都市部の地形がいかに複雑に起伏しているかがよくわかるうえ、都心の大動脈らしいダイナミックな風景は東京に慣れ親しんだ人にとっても見ごたえがある。

こうした住宅街とともに、賑わう商店街も富ヶ谷になくてはならない存在だ。とくに「代々木公園」駅、「代々木八幡」駅周辺から渋谷駅方面に向かう商店街や路地裏には冒頭のような気の利いたショップが多く、都市暮らしを楽しむ大人たちが集まる場となっている。といっても、代々木公園の緑のせいかどこか力が抜けてのんびりとした雰囲気で、渋谷駅周辺の喧騒やエネルギッシュな空気から少し離れたくなった大人たちが集う理由がわかるような気がした。