連載コラム 都心*街探訪

2015年11月16日

第17回
由緒あるターミナル街「神楽坂」

文:坂根康裕 撮影:富谷龍樹

賑わいをもたらした3つの要因

毘沙門天

不動産の価値は利便性が左右する。最近のマンションは駅前立地がひときわ人気だが、理由は利便が資産価値につながりやすいから。人の動線が集中するところには、自然発生的に経済が生まれ、やがて街へと発展していく。これはなにも今に始まったことではなく、現代の鉄道交通網が整備されるはるか前から同様のことは起きていた。古くから繁華街として知られる「神楽坂」はその典型だろう。

江戸時代、運輸の要は河川であった。江戸湾から上ってきた積み荷は「市谷御門」(現在の「市ヶ谷橋」)まで上がれたといい、「神楽河岸」(現在の「飯田橋」駅付近)は船留の河岸として機能した。明治に入ってからは外濠沿い、大久保通りに市電が走る。現在は、じつに5路線(JR中央総武線、東京メトロ南北線、同有楽町線、同東西線、都営大江戸線)が交差する「飯田橋」駅がターミナルの役割を果たしている。

メインストリートである神楽坂は、飯田橋駅から西方向へ上る。坂の周辺には多数の神社仏閣が点在。なかでも有名なのは「赤城神社」であり、「毘沙門天」で知られる「善国寺」であろう。門前町としての賑わいは明治、大正へと受け継がれていった。関東大震災でも被害の少なかったことが、繁栄の要因のひとつであったといわれている。神楽坂は花街であったことも著名だが、戦前の最も多かった時期で在籍した芸者の数は700名にも上ったという。

交通アクセスの要所と門前町が重なり合って今に至るが、もうひとつ挙げておきたい要素がある。他でもない、大学の集積だ。東京理科大、早稲田大学、法政大学。老若男女が集まる街の個性は、例えばサラリーマンが来街者の多くを占める新橋などとは違って独特の活気をもたらしてきたのではないかと思われる。街とのつながりを長く保ちやすく、愛着の芽生えやすいことがビジネス街や飲食中心の街との違いではないだろうか。

横丁に残る風情

神楽坂

神楽坂住所は、坂下の1丁目からはじまり6丁目がまで存在する。坂上に東西線「神楽坂」駅があり、赤城神社がある。神楽坂の両側には様々な商品を扱うお店が今なお多く軒を連ねるが、道幅の狭い横丁の風情も神楽坂ならではのもの。石畳が続き、平屋の料亭が家並みを形成する様は、東京広しといえど独特の光景だろう。

以前、千代田区番町の高級賃貸マンションにフランス人の引き合いが少なからずあると聞いたことがある。理由のひとつには、神楽坂が近いから。独特の景観は母国に通じるものがあるようで、洒落たレストランの多さも魅力だとか。時代を問わず、国を問わず。やはりこの街は、様々な人たちを引きつける不思議な個性を持ち合わせているようである。