連載コラム 都心*街探訪

2017年3月16日

第33回
都市と郊外の“あわい”「二子玉川」

文:荒井直子 撮影:佐藤真美

宿場町的な存在から行楽地へ

高島屋前のスクランブル交差点

いくつもの人気住宅街を抱える世田谷区のなかでも、商業施設や交通の利便性、そして多摩川に寄り添った自然環境の良さも含めて、その存在感は区内随一といえる二子玉川。のびやかで垢抜けた町の雰囲気、幸せいっぱいの子育てファミリーや洗練されたマダムたちは、まさに今の二子玉川を象徴する姿だろう。

都心部からは少し離れた立地ながらここまでの存在感を持つようになった二子玉川も、もともとは郊外の要素が強いエリアだった。二子玉川を含む現在の世田谷区は江戸時代には江戸市域に含まれず、明治・大正時代も郡部に所属。昭和に入ってから東京に編入し、都市化への道を歩み出した。

そのなかで二子玉川が現在のような商業拠点になった背景にあるのは、江戸時代、多摩川を渡る船着き場があった場所だったことが関係していると言われている。当時は防衛の観点から多摩川の架橋は厳しく制限され、以降、大正時代末期までこの付近には橋が架かっていなかった。その代替として使われていた交通手段が渡し船。船着き場が設けられた二子玉川周辺には宿や料亭が立ち並び、宿場町のような賑わいを見せたという。

そうした時代背景もあり、二子橋の架橋後に二子玉川付近は次第に行楽地・商業地へと姿を変えていくことになる。その代表的なものが、現在の東急田園都市線・大井町線「二子玉川」駅東口近くにあった遊園地『二子玉川園』だ。起源は1922年に開設された玉川第二遊園地にあり、名称や経営母体を幾度となく変えながらも1985年に閉園するまで長きにわたってこのエリアのシンボル的存在だった。かつて存在した新玉川線が東急田園都市線に統一される2000年まで駅名が「二子玉川園」駅だったことを思うと、その存在の大きさがわかるだろう。

駅前再開発が完了し、職・住・商業が一体に

新二子橋から

二子玉川園の歴史を受け継ぐように新たに生まれたのが、駅の西口に1969年にできた『玉川高島屋S・C』だ。日本初の郊外型ショッピングセンターといわれ、誕生から半世紀近く経つ現在においても二子玉川のイメージを牽引する。  さらに、その玉川高島屋S・Cと対になるようにできた新名所が、駅東口に誕生した『二子玉川ライズ』。二子玉川園があった場所は長年、再開発事業用地として計画されていたが、景気の低迷などにより計画が長期化。『ナムコワンダーエッグ』や『いぬたま・ねこたま』など期間限定の行楽施設を経て、2010年に商業施設の一部『二子玉川ライズ・バーズモール』、『二子玉川ライズ・オークモール』がオープン。隣接する超高層住宅『二子玉川ライズタワー&レジデンス』の入居も同年から始まり、翌年にはオフィスビル『二子玉川ライズ・オフィス』もオープン。職・住・商業が一体化した新しい町が誕生した。

この二子玉川ライズの誕生によって二子玉川の人の流れは一変した。玉川高島屋S・Cのある西側に比べて長年地味な存在だった東口も、今では多くの人で賑わうエリアに変貌。平日は企業に勤めるビジネスパーソンで賑わい、週末ともなればカップルや家族連れはもちろん、リタイア層の夫婦の姿も多く見かける。

そんな賑やかな駅周辺の商業エリアから二子玉川ライズの居住棟方面を奥に進むと、郊外の景勝地として親しまれたかつての姿をほうふつさせる多摩川の雄大な流れを見ることができる。二子玉川ライズの街びらき後に完成した二子玉川公園からは、晴れた日には丹沢山系や富士山の姿も望むことができ、華やいだ都市の合間に見えるのどかな姿に、都市と郊外の間に絶妙な立ち位置で存在する二子玉川の魅力を実感した。