連載コラム 都心*街探訪

2016年5月16日

第23回
いつの時代も活気に満ちる「日本橋」

文:荒井直子 撮影:佐藤真美

江戸随一の商業地として繁栄

日隠橋界隈の景観

かつては五街道の起点として名実ともに江戸の中心にあった日本橋。現在の日本橋中央にも「日本国道路元票」と刻まれたプレートが埋め込まれており、日本の道路網の起点としての存在感は健在だ。こうした“道路の起点”をはじめ、“商業の中心地”“金融の街”など、日本橋を形容する言葉はいくつもある。そこには当然、歴史と時間の重みが大きく関係しているのは言うまでもない。

現在の東京都心部にあたるエリアは、江戸時代以前より人の住む町ではあったが、本格的な都市整備が始まったのは1603年に江戸幕府が開かれてから。当時の江戸は今とは大きく異なり、現在の中央区の多くがまだ「日比谷入江」と呼ばれる大きな湾に位置し、海のなかにあったという。その日比谷入江を埋め立て、初めに町割りされた(都市として区画整理された)エリアが、日本橋エリア。まさに日本橋は、江戸・東京でもっとも歴史ある町といえるだろう。

町の区画整理とともに行われたのが水運の整備。当然のことながら当時は鉄道も車もなかったため、物流の主役は船。人が集まるところに物資を運ばなければならなかったため、日本橋川や京橋川をはじめとした水路、そこに架ける橋、荷物の上げ下ろしをする船着き場が次々と整備されていった。

街が作られ、急速に人とモノが集まるとともにおのずと発展していったのが商業だ。その筆頭ともいえるのが、魚河岸の存在。魚河岸といえば現在は築地を思い浮かべるが、築地に移転したのは関東大震災で大きな被害を受けた後のこと。江戸時代当初から大正期までの約300年間は日本橋の北東側に広がっており、現在の室町一丁目付近は隙間なく鮮魚店が並び大変な賑わいを見せたという。残念ながら現在ではその名残はほとんどみられないが、日本橋の東側のたもとに「日本橋魚市場発祥の地」の石碑がひっそりと佇み、静かにその歴史と存在を伝えている。

この魚河岸の活気は多くの商売人を引きつけ、呉服商の「越前屋(現在の三越)」、鰹節問屋の「にんべん」、海苔の「山本山」など、現在も老舗として暖簾を掲げる名店を次々と生み出していった。

商いの心意気を今に継いで

日本橋

住所表示が「日本橋」から始まる範囲は思いのほか広く、現在でも20の町名にものぼる。これは、旧行政区分である「日本橋区」に属していた地域の多くにその名が冠せられているからであり、京橋区と合併して中央区が発足した当時はすべての町名に「日本橋」が入っていたことからも、日本橋という名に対する誇りと愛着を感じさせる。

現在、一般的に日本橋という名から連想するエリアは、東京メトロ銀座線・半蔵門線「三越前」駅、東京メトロ銀座線・東西線「日本橋」駅、都営地下鉄浅草線「日本橋」駅周辺。住所でいうと、日本橋、日本橋室町あたりを中心としたエリアだろう。長い歴史の中で小さな興隆は幾度かあったものの、近年は大規模な再開発が進み、また大変な賑わいを見せている。以前は、平日はビジネス街という印象が強く、買い物客は休日が中心だったが、再開発で商業ビルが増え、映画館など日本橋にそれまでなかった施設もオープン。日本全国のアンテナショップも数多く集まり、平日でも買い物客や観光客が多く集まる町になっている。

街の姿は時代ごとに大きく変貌しているが、100年以上、その姿を変えないものが日本橋にはある。そう、日本橋のシンボルともいえる「日本橋」の橋そのものだ。現在の橋は1911年に架けられたもので、「19代目」とも「20代目」とも言われている。当時の最先端の技術を駆使したもので、美しいアーチ型、装飾柱など、優美で手の込んだ細工や風格ある佇まいは“さすが日本橋”と思わせるものがある。橋のたもとに書かれた「日本橋」「にほんはし」という毛筆は、江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜によるもの。歴史上の人物による筆跡を身近に触れられるのも、いつの時代も中心的存在である日本橋ならではの魅力だろう。